三谷魚市場の歩み

昭和62年発行の「三谷漁協のあゆみ」より抜粋


 三谷に船が出来て、船だまりの港らしきものが出来ると、当然のことながら漁獲物の仲立ちをする者が現れることは想像に難しくない。口伝えでは、徳川初期に魚河岸らしきものがあったといわれるが、それを証明するものはなにもない。なにせ、魚河岸というものは必ず海岸の最前線にあって、今日のような頑丈な港湾設備があった訳ではないので、台風・高潮・津波などでひとたまりもなく、その都度流失しているので資料らしいものはほとんど残されていない。最近では、昭和28年の13号台風と34年の伊勢湾台風で漁協事務所が高潮で破壊流失している。
 魚市場のことを昔から、魚問屋または問屋と呼んでいた。明治末期から昭和一桁頃は単位「会社」と呼ばれていた。これは、魚鳥株式会社を略したものであるが、三谷では他に大きな株式会社がなかったので「魚会社」とか「会社」のみで結構通用していた。一説では、徳川家康が三河平定のころすでにそれらしきものがあったとか、家康が江戸入府に際し、「露置かぬ方もありけり武蔵野の原」と太田道灌が詠んだ江戸の原野に、三河の二・三男坊を引具して行って、その一部が日本橋で、魚河岸を作ったとか言われているがそれを証するものはなにもない。
 三谷魚市場の伝承では、このあたり一帯を統治していた西ノ群城主の松平候は、三谷の地が船着きに便利であるので魚商人を奨励されたとある。また、松平候により中浜区に対し魚市場開設の特権を与えられていたとも伝えられている。
 有名な三谷祭が始まったのが元禄9年9月(西暦1696年)であり、村中で協議して松葉を宮元とし、村内六島(区)が組織的に全村を挙げて祭礼を運営、京都の祇園祭を模した金色絢爛の大山車を惜しげもなく海中に曳き入れる雄大な海中渡御が始まったのが正徳2年(1712年)である。このころから海に生き、魚を取り扱う私たち祖先の活気あふれる生活が、根強く地域に密着していったものと思われる。
 寛文年間(1661〜1673)に、水藤金蔵氏の祖先が観音寺前の浜で個人魚問屋を開業していたという。のち、この浜辺に2.3軒が軒を並べて魚介類を取り扱う個人問屋が出来たが、水藤金蔵氏の祖先が中心であったらしい。
 明治15年7月1日、中区の有志が相寄り、徳川中期より続いた個人魚問屋4軒を区が買い受けて一本化を図り、六舗海岸の現在中区中区山車蔵あたりに資本金650円の巨費を以て「中区区営魚問屋」を創立した。統合された魚問屋は{水藤金十氏}{水藤平三郎氏}{藤田丈作氏}{水藤又吉氏}この魚河岸の祖ともいうべき4人の方は、漁協公園の水産頌徳碑にその名を刻まれて永く顕彰されている。この年の9月には、第一次三谷漁港工事が完成し、漁船も年々増加し水揚げも増え、加えて優秀な魚仲買人が輩出し区営魚問屋は順調な成績を挙げ続けた。
 明治21年9月、東海道線の蒲郡駅が開業し、三谷の魚河岸より鉄道による鮮魚の大量出荷が始まった。豊橋魚市場に運搬するグループは「早っちょ」と称する快速小型大八車に魚介類を積んで星越峠を経て豊橋まで走りまくった。
 明治27年、小さな三谷が町制を施行、他の村とは合併をせず壱千戸余りの戸数ながらめざましい発展をしたのは水産と織物という大きな産業が基盤となっていたからである。 このころから、三谷の魚市場で競り売りする鮮魚は、三谷漁民が漁獲した魚介よりも、他地区の漁船当が水揚げするものの方が遙かに多く、三河湾沿岸は勿論のこと遠く伊勢・志摩・熊野方面より競り売りに来て、販売高において常に愛知県第一の水揚げの実績を誇っていた。ちなみに中区の山車は、明治26年に五百弐拾参円で新調されたもので、代金は魚問屋が立替支払、現在も使用されているものである。区営魚問屋が常に優秀な成績を挙げていたので、中浜の区民の等戸割は無料であり、祭典費用や区の経常費用は魚問屋の収益で賄われていた。
 明治32年6月、中区区民を株主とし、資本金参万円の「三谷魚鳥株式会社」を創立し、中区区営魚問屋の業務と伝統を継承した。六舗地先の埋立地に魚舎を建設、港域の拡張改善を行った。また、同じ年の10月北区と西区の有志が連合して、「三谷水産株式会社」を資本金弐万円で設立して両者対立の姿となった。しかし三谷水産株式会社の資料は何一つ残されていない。三谷魚鳥株式会社は役職員の努力と魚仲買人の協力で順調に伸展、特に知多・渥美・志摩方面の漁船の誘致に成功し、日露戦争大勝後の39年下半期には、取扱高九万円余、配当四割の記録を残している。大正12年には子会社の「三谷製氷株式会社」を創立し、また県にはたびたび水産試験場建設の寄付金を拠出していた。
 大正13年、西北連合の三谷水産株式会社は解散し、その業務を三谷魚鳥株式会社が継承した。このころ、水産と織物に支えられた三谷の経済力は強固で、破竹の勢いで東海道線三河三谷駅を請願駅として実現せしめた。新駅の設置は三谷町の産業に大きな福音をもたらした。実現運動の急先鋒となった水産業界は、鮮魚の出荷・行商に販路を拡大し、三谷魚鳥株式会社は隆盛の一途をたどった。そして、大会議所(新館)を建設・遠洋マグロ漁船三福丸の建造・県遠洋漁業指導船白鳥丸の進水・紀州よりの鮮魚運搬船の急増等々、愛知県第一の漁港としてゆるぎない地位を固めた。
昭和14年、水産組合法が制定され、漁港を有する魚市場は組合組織にとの通達により、三谷魚鳥株式会社は長い栄光の歴史を閉じ、魚会社組織と漁船の漁業組合組織が合同して、一切の業務を引き継いだ「保証責任三谷漁業協同組合」設立された。翌年現在地に新漁港が完成し、巨大な魚舎(荷捌き所)が建ち、同時に松前埋立地も完成、沖の防波堤灯台に紅白の灯が灯されると漁港は一段と活気を呈した。
昭和19年、法令により保証責任三谷漁業協同組合は「三谷町漁業会」と改称され、戦時経済統制が強化されたが、実際には船ない・人ない・油ないの」無い無いづくしでたいした業績も挙げられず終戦という結末を迎えた。多くの人材と船舶を戦争で失った魚市場は、戦後も統制の枠の中で身動きがならず、闇経済の混乱期を経て、昭和24年秋に鮮魚の統制が撤廃され、水産業協同組合法の施行により「三谷漁業協同組合」となった。取扱高も順調な伸びを見せたが、昭和40年代に入って漁業補償による海岸の埋め立て・海洋汚染・オイルショック・200海里問題・後継者難等々と難問が集積した。魚市場の運営は厳しいものになろうとしているが、魚買受人・漁業者・組合役職員の三者一体となって、さらに努力してゆかなければならない。